WORLDISTAにログインする前から、とりわけ宮城の公演が楽しみでワクワクしていた。
友人の妹のシゲ担にお誘いをいただき、4連で参加できることになったのだ。3連までは経験したことがあったけれど、4連なんて一生できないと思っていたから、一緒に参戦する友人たちと1ヶ月前にうちわを作る会まで開いた。やっぱり4人だったら「シゲアキ」の4文字だよねと一文字ずつ切り取って作った手作りの名前うちわは、光を遠慮がちに反射するデザインで、我ながら加藤さんに似合う出来だと思った。
入ってみると、席はスタンドの上方だった。いい席じゃなくてごめんなさい、と言われたけど、全くもってそんなことはなかった。どの席でもいいところがあるし、何よりそこは加藤さんのリフターの目の前だったのだ。
ライブの中盤。とうとうリフターで歌う曲になった。
加藤さんを乗せたリフターがゆっくりと上昇して、ちょうど目線の高さで止まった。定められたその高さは、恐ろしいほどまっすぐに私の正面で。その直後、バチンと音がしそうなくらい目が合ったのがわかった。
周りの世界が消えてしまったみたいだった。スポットライトに照らされた加藤さんと、客席でうちわを持った私と、セキスイハイムスーパーアリーナにたった二人で存在しているような気分になった。音も景色もシャットダウンされた二人だけの世界で、どれだけの間見つめあっていたんだろう。「今めちゃくちゃこっち見たね?!」という友人の一言で現実に引き戻されると、彼はまた別の場所を見ていた。
リフターって光に照らされた人がぽつんと宙に浮いているようで、そんな時にはっきりと目が合う、という体験は、それがたとえ1秒かそこらの時間だったとしても、その1秒をまるで8000人の中で2人っきりの時間、みたいな気分にさせる。
その曲中、加藤さんは何度も何度も私たちの方を見てくれた。
見てくれた、というよりかは、あまりにも真正面だから、見ようとしなくても目に入ってしまうようだった。防振を持っていた友人も双眼鏡の中で何度も目が合うと言っていたし、私も何度もこっちに視線が向けられていて、かつ周りにシゲ担が少ないことも察知していたのだけれど、彼が何もしないので「本当に私たちなのかな」と段々不安になってきた。それでも何もできることはないから、視線を感じるたびに、目一杯の笑顔を浮かべてうちわを少し振った。
曲が終わる。リフターが下がっていく。
ああ、この幸せな時間も終わってしまうのだなと思ったとき、加藤さんがこっちを見て手を振った。下がっていくリフターで、上を見上げて、私たちに手を振ってくれたのだ。それも一番に。友人はあとで「しかたねえな~って感じの顔」と言っていたけれど、とにかくそんな彼氏のシゲくんみたいな優しい微笑みを浮かべて、わたしのうちわに、紛れもない既読をつけてくれたのだ。
そうして私は、もう何度目かわからない恋に落ちた。
埼玉公演のとき、フォロワーさんと今回のシゲはちょっと大人しいよね、というお話をした。特にリフターの時は特に全然動かないよね、と。確かに札幌公演で私がスタンドの下の方から見上げた加藤さんはずっと上の方を見ていて絵画のようだったし、小山さんや手越くんのようにたくさんファンサをしたりはしないけれど、宮城で”上の方”にいた私は思い出した。彼の視線がスタンドの端から端まで、何かを探すように何度も往復していたことを。
ここ数日、Twitterで加藤さんのファンサの話が盛り上がって、彼のファンサは「見つける」ことなのだと気づいた。
思い返せば初めてのライブだったNEVERLANDで、スタトロ最前列だった私がここぞとばかりに彼の名前を叫んでいたときも。そんな近い距離で見れただけでありがたいのに、せっかくのスタトロなんだから上の方の人に手を振って当然なのに、それでも「ここにいるよ」と伝えたくて、この世の終わりみたいにシゲ、シゲ、と名前を呼んでいた。そして、今にもトロッコが通り過ぎようかというときに、なんと彼はしゃがんでくれた。しゃがんで、トロッコの横から顔を出して、私のうちわを見て、困ったように笑ったのだ。
そんな永遠のような一瞬のあと、私は立ち上がった彼の、マイクを通さない肉声を聞いてしまった。
もう十分聞き慣れたはずの加藤さんのパート。
「美しい恋にするよ」ーーーーそんな約束を。
私がライブに必ずうちわを持っていこうと思うようになったのはそれからだ。名前を呼べば届くこともあると知ってしまったから。あの日あの時あの瞬間、ただあなたのファンの一人でしかなかった私を見つけてくれたから。そんな自意識を抱いてしまうことは、拗らせれば呪いになる危険性も孕んでいると思う。ファンサは魔法なのだ。自分次第で祝福にも呪縛にもなる、美しい恋の魔法。
それでも私が加藤さんのうちわを持つのは、SNSで愛を叫ぶのは、同じものが好きな仲間を得たいという気持ちもあるけれど、やっぱり加藤さんに知ってほしいからだ。ここにあなたのファンがいると。何千、何万といるあなたのファンのひとりです。本当にここにいるからね、と。
私はきっとどこかで加藤さんがファンの存在に懐疑的だと思っているのかもしれない。
何も根拠はないのだけれど、謙虚すぎる加藤シゲアキという人は、自分にたくさんのファンがいるということにも実感を持てていないのではないかと思うことがある。アイドル側から見たファンという存在を想像してみると、ファンクラブの人数やCDの売り上げ枚数は指標にはなれど、やっぱり実体のない数字でしかない。私たちがアイドルに対して「本当に存在するの?CGじゃない?」と言うように、アイドルにとっても、私たちは見えない群衆なのかもしれないのだ。だからコンサートという空間で、私たちは互いの存在を確認しあっている。お互いに「本当にここにいるよ」「本当にいるんだ」と確かめ合うように。
そう考えるといろんなことに合点がいく気がした。一人残らず自分のファンを「見つける」とでも言いたげなコンサートでの様子も、本当はめちゃくちゃ愛されたいと思っている加藤さんが「ラジオに来たメールは全て読んでいる」と言うのも、もしかしたら”愛してくれる人”の実体を求めるがゆえなのではないか、と。
私たちがアイドルに対して抱いてる「本当にいるのかな?」という不安をひょっとすると加藤さんもファンに対して抱いていて、コンサートは直接会って互いに「本当にいるよ」と確認し合う場所なのかもしれないと思った。“私”と“加藤さん”の文脈で考えるとき、ライブはなんとなく握手会やサイン会に近い。
— べーぐる (@bagle00) 2019年5月23日
全て憶測にすぎないけれど、そんなことを考えては、加藤さんのことがまた一段と愛おしく思えるのだ。
彼はいつだって”見つけて”くれた。
他のコンサートーーEPCOTIAや味スタでも、今回ほど確証はないけど、「加藤さんと目が合った」と思う瞬間があった。きっとコンサートじゃなくても。ラジオでも、ネットでも、どこかで加藤さんは私たちを見つけてくれているような、そんな気がする。彼のファンになってつくづく幸せだと思う。そこに言葉がなくても、アクションがなくても、見つけてくれた、というだけで、肯定してもらえたような気持ちになれるのだから。
目が口ほどに物を言うなら、確かに見つめあったあの数分間で、私はどれだけの愛を伝えられただろう。
どうか、彼が手を振らざるを得ないくらい、「どうしようもなくあなたが好きなんだ」と伝わっていたらいい。