EVERGREEN

好きな人が物書きなもので、つい。

5 and I × 10〜嵐の20年と、私の10年。〜

 
“ 5 and you × 20 “ “20年最高だよ” …
 
2019年12月23日、東京ドームのスタンド席。
涙で顔をぐしゃぐしゃにして、私は『5×20』を聞いていた。
 
 
わたしが嵐と歩いたのは、たった10年、されど10年。
その間、まさしく私の人生は、嵐とともにあった。
 
 
================
 
小学生の頃、嵐は10周年を迎えて名実ともに国民的アイドルになっていた。クラスの話題にも頻繁に「嵐」が登場するようになり、楽曲のピアノ譜面の貸し借りが流行ったりした。その頃私は小学校高学年。女子が複数人でグループを作り始める時期だったが、1クラスしかない小さな小学校で、私はどこのグループにも属せていなかった。今はもうはっきりとは覚えていないけれど、きっと周囲のそういう話題についていきたくて、眠い目をこすって「嵐の宿題くん」や「ひみつの嵐ちゃん!」を見始めたのだと思う。
 
その頃からオタクの素質を持っていた私は、短期間で嵐に関することを調べまくり、Wikipediaに載っているような内容を5人分ほぼすべて暗記した。身長、体重、生年月日、出身地に家族構成。そんなテストどこにもないのに、知識を持っていることで安心した。
 
しかしそうこうしているうちに、周りはK-POPや他のジャニーズなど、どんどん別のジャンルに流れていった。言い方は悪いけれど、いわゆるミーハーの子たちにとって、嵐はまたひとつのブームでしかなかったのだ。気づいたら、クラスメイトたちがベスト盤の曲を知っている程度なのに対して、私は「アディコキッチ」が「遅刻だ!」の逆再生だとわかるレベルのオタクになっていた。
 
嵐を好きになった私は、生意気にも「たくさんいるファンのコミュニティの中に入れた」という喜びと、「ただアイドルにうつつを抜かしている女だと思われたくない」という意地を同時に抱いていた。親も頭が固かったのでずっと「頭がいいから櫻井くんが好き」と言っていたが、本当は「クレバーでいろんな返しができたり歌詞がかけたりするのに、番組だと一番いじられる翔くんが好き」というのが正しかった。
 
 
 
そんなんだから中学生になっても「ファンクラブに入りたい」とも「コンサートに行きたい」ともずっと言えなくて、私は外側から応援するからいいのよ、FCに入っててもコンサートに行けない人だってごまんといるし、と自分を納得させていた。全部の楽曲のRAP詞をノートに書いて覚えたり、新曲の振付を覚えたり、CDシングルの発売日を暗記したりするのが楽しかった(気持ちわるいオタク)。
 
それでも唯一一般プレイガイドでチケットが買えた『嵐のワクワク学校』だけは淡い期待をかけて申し込み、二回ほど当選したが、二回とも部活の試合と被って親戚に譲らざるをえなかった。一番悔しかったのは、地元に『ワクワク学校』が来てくれたときだ。チャリティーの一環で宮城県で行われた『嵐のワクワク学校』には地元の中高生が多く招待され、とうとう嵐に会えるのではないかと胸を躍らせるも、開催日程は中間考査の前日。「翔くんだったらテストの前の日に遊んだりしない」などと自分に言い聞かせて、応募すらしなかった。イベントの次の日、普段嵐の話をしたこともない友人に「相葉くんとハイタッチした!」と報告されて、テストを受けながら泣いたこともある。
 
 
 
結局、私にとって人生初めてのコンサートは高校卒業間際の『ARASHI BLAST in Miyagi』になった。一度機会を棒に振った私を見捨てずにまた地元に来てくれた嵐。これ以上のきっかけは無いと思いお小遣いでファミリークラブに入会して、ハガキで応募した。絶対見られないとわかっていながら、ハガキの必要事項の下に「また宮城に来てくれてありがとうございます。一度でもいいから嵐に会いたいです」と書いて、投函するまでの数日間、リアルに神棚にあげて願をかけた。
 
大野くんと櫻井くんの「山コンビ」の関係性が好きで、その頃すっかり大野くんに魅せられていた私は、不器用故のつくりの雑さを散々馬鹿にされながら人生で初めて「智」のうちわを作った。その矢先、ライブの数日前に週刊誌報道。スキャンダルがどうというよりも、錯綜する情報やファン内でのごたごたに振り回され、めちゃくちゃに病んだ。嫌なうちわがあったらどうしよう、智くんがライブでとても笑えなかったらどうしよう、どうか君が笑えますようにーーそんな不安を抱きながらうちわを握りしめたオープニング。ポップアップで目の前の花道から出てきたのはほかでもない大野くんだった。その瞬間、すべてが決壊して一曲目で泣いた。ずっとよくできた3Dホログラムかもしれないと思っていた嵐は、全員、本当に生きていた。
 
 
「一度でいいから」
 
そんな願いが聞き届けられてしまったのか、それから数年間コンサートには外れ続け、私にとっては5×20が人生で2度目の嵐コンになった。10周年で嵐に出会って、ジャニーズを知って、小学生だった私は20代の大学生になっていた。
 
嵐の歩んだ20年、その軌跡と重なるように、私の人生の10年があった。
 
 
 
================
 
 
ARASHI Anniversary Tour 5×20。
20年を振り返るようなセットリストを聞いていると、にわかに蘇る記憶があった。
 
 
電池残量3%のiPodで嵐の曲を聞いて眠りについた2011年3月11日。
電気が復旧するなり点けたテレビに、彼らが映った日の感動。
一睡もしていないような顔でNEWS ZEROに出た翔くんが心配で、
市販のハガキをびっちり文字で埋めて初めてのファンレターを出したこと。
 
部活が辛くて辛くて、泣きながらVS嵐を見ていた夜。
何を言おうとしても涙しか出てこないのに、嵐を見ていると笑顔になれた。
明日は嵐の番組があると思えば頑張れたテスト期間。
必ずファイトソングを聞いて励まされていた部活の試合前。
 
BLAST参戦前に、来る日も来る日も聞いた『君が笑えるように』。
忘れもしない、ライブの一曲目として流れた『ワイルド アット ハート』。
家に帰ってから、部屋を真っ暗にして聞いた『果てない空』。
 
校内放送で流れるたびに、親友の教室まで踊りに行った『愛を叫べ』。
大好きな『Make a wish』を聞いていたセンター試験の休み時間。
『途中下車』を聴きながら寂しさを紛らわせた新幹線の中。
 
 
 
曲を聞いていたときの風景から、テープだったら擦り切れるほど見た過去のライブ映像まで。驚くほど鮮明に思い起こされる思い出の数々に、気づけば死ぬほど泣いていた。
 
 
彼らのおかげで乗り越えられた出来事が多すぎて、
私に嵐がなかったら、きっと全く違う人生になっていたかもしれない。
 
 
たくさん支えてくれて、光になってくれてありがとう。
たくさんの思い出と友人をくれてありがとう。
今ここにいる私を作ってくれてありがとう。
 
伝えたくても伝えきれない、たくさんのありがとうがある。
 
 
 ================
 
 
 
ライブから帰った数日後、私は友人からのLINEで嵐の活動休止発表を知った。
不思議と心は穏やかで、そうか、と納得した気持ちだった。
 
というのも、昔からネガティブな私は、嵐を応援しながらもずっといつか来る”終わり”のことを考えていたからだ。そして、そのときからずっと、「嵐には山口百恵であってほしい」というのが私の願いだった。
 
 
願わくは、
「5」から誰一人欠けることなく。
活動限界を迎えるのでもなく。
人気が衰えるのでもなく。
 
嵐の嵐らしさをのこしたまま、フィナーレで大輪の花火を打ち上げて伝説となるような、そんな「終活」ができるアイドルであってほしいと思っていた。
 
 
 
その頃には私の妄想でしかなかったことが、今、嵐によってすべて叶えられている。彼らは自分たちの声で語り、たくさんたくさんファンに会える時間をつくり、Youtubeチャンネルを作って、記念品をファンひとりひとりに届けてくれている。そして、20周年を経てなお ”道なき道を歩いていく“嵐の、この一旦のフィナーレには、まだ一年もある。伝説はまだ続いていく。
 
 
 
嵐が一旦歩みを止めてしまうことは、寂しくはあるけれど、悲しくはない。
なぜなら彼等がコンサートで気づかせてくれた最大の事実は、“ 5 and you × 20 “であり、私の人生そのものが、嵐の時間と切っても切り離せないということだからだ。
 
 
 
青春のすべてのページに嵐がいること。
 
それは、わたしがこれから一生、「嵐ファン」でいられるという保証でもある。
私がいつかを思い返すとき、そこには必ず嵐がいて、嵐の音楽がある。嵐と共にあった思い出がある限り、たとえ"今"の嵐を追いかけられていないとしても、私にとって嵐も嵐ファンとしての自分も永久不滅なのだ。
 
 
 
 
 
 
 
2019年11月3日。
嵐CDデビュー20周年。
 
 "You are my soul, soul, いつもすぐそばにある"ーーー
この歌詞がこれほど刺さる日が来るとは、予想だにしていなかった。
 
 
 
 
 
 
これから先、何十年経っても、彼らが本当のゴールを迎えても。
嵐という夢は残るし、それに私たちは励まされ続けると思うから。
 
 
 
今までも、これからも、最高の夢をありがとう。