EVERGREEN

好きな人が物書きなもので、つい。

春を願う日

 
その日私は、卒業式の前日を迎えていた。
 
生徒はみんな校内の大掃除と式典の準備に駆り出されていたが、当日のアナウンスしか仕事がなかった私は教師から早々に帰宅を許可され、ひとり家路についていた。中学一年の終わり。春を予感させる、うららかな3月の午後だった。
 
 
 
実家まですぐのT字路についたときだった。
突如として、どん、と音がするかのような揺れが発生した。
瞬時に「ああ、これは来たな」とわかった。
小中学校で幾度となく先生たちに聞かされて来た宮城県沖地震経験談が走馬灯のように脳裏をめぐる。電線が縄跳びのようだったとか、ひびの入った地面を自転車で走って怪我しかけたとか、想像の世界にあった光景が、今まさに目の前で起ころうとしていた。
 
 
歩道の脇は公園だった。
斜面が崩れる可能性を想定してフェンスから離れ、その場にしゃがむ。
地面の揺れと反比例するかのように、どんどん冷静になっていく自分がいた。
電柱が倒れたら終わる。左右の電柱から均等に距離をとって、周囲の様子に気を配る。
そうこうしているうちに、目の前の道路は白線のところでひび割れ、段差になっていく。
信じがたいことに、その道路を平然と車が走っていく。
このままここにいるわけにもいかない。
 
揺れが弱くなった瞬間を狙って、家まで全力で走った。
 
 
家につくと、母親と祖母が必死に柱を押さえて立っていた。
「なんで帰ってきたの!」と言われたが、帰宅途中だったんだから仕方がない。
家の中で安全を確保して揺れがおさまるのを待ったが、全く終わりが見えず、外に出て揺れをやり過ごすことにした。近所の人もみんな道路に出てきて、ただ呆然と自分の家を見ていた。立ち尽くす私たちの上に、季節外れの雪が舞った。
 
 
人生ではじめての、明かりのない夜だった。
蝋燭の明かりしかないことはまだよかった。何より私の気持ちを滅入らせたのは、ずっとつけていたラジオから淡々と流れてくる情報だった。海水浴に行った浜の名前、部活の練習試合で行った学校、よく知る土地の名前の後に続く「身元不明の遺体新たに200人」。ほどなく、「福島第一原発で爆発が発生しました。詳細はわかりません」。数十キロ先の世界が一体どうなっているのか、全くわからない恐ろしさがあった。気晴らしにチャンネルを変えてみると、延々と流れてくるのはオリンピックのテーマソングのような応援歌だった。この状況でどう頑張って前を向けというんだろう。だったら私はそんなとってつけたような特集じゃなくて、毎日聞いていた音楽を聞きたい。
 
 
情報にいちいち絶望するのも嫌になって、自分のベッドで寝たいとわがままを言った。
布団の中に持ち込んだiPodは電池残量が3%しかなく、どう頑張っても一曲分を流す体力しか残っていないように思えた。
 
 
選んだ一曲は櫻井翔くんのソロ『T.A.B.O.O』だった。
日本中探しても、あの日にこんな歌を聞いていたのは私くらいじゃないかと思う。でも私は、昨日まで当たり前に聞いていた曲を聴きたかった。不思議なことに、毎日親の声より聞いていた音楽は驚くほど安心できて、一曲聞き終わる前に私は眠りについた。
 
 
 
 
 
それから、電気が復旧するまでに一週間かかった。
冷蔵庫が使えないため生物から消費する必要があり、毎日朝ごはんはいただきものの東京ばななだった。
水道は復旧するまでに二週間、ガスは一ヶ月かかった。
 
 
 
 
 
それでも私の家ではほぼすべてが「復旧」した。
私は地震でかすり傷ひとつ負わなかった。
 
 
 
クラスメイトは津波で親を亡くした。
住んでいた家が流されて転校してきた人もいた。
故郷に帰れなくなった人もいる。
 
 
2011年からずっと、私は募金「する側」で、
震災"体験者"ではあっても、"被災者"ではない。
 
 
「復興」の定義は難しい。
一度失われてしまった命も、町も、決して元には戻らない。
被災した人にとって、震災後はずっと「震災後」でしかないのだ。
だから復興という営みには終わりがない。
 
 
それでも、私には、ただ想うことしかできない。
言い換えれば、語ること、祈ること、忘れないこと。
そう思って筆を執ってみたところで、私には人一人救えやしないけれど。
 
 
 
 
3.11は、私にそういう無力感と「人生は有限である」という実感を遺していった。
終わりは唐突にやってくる可能性の方が高く、私の人生が明日も同じように続いていく保障なんてどこにもない。一時間後に天災が起こるかもしれないし、明日、交通事故で死んでいるかもしれない。毎日強く意識しているわけではないが、悲観的な意味ではなく、日常のふとした瞬間にそういうことを思う。いつか死ぬということが当たり前の感覚として、ずっと心にある。
 
 
あれから9年が経った。記憶は手を伸ばせば届く距離にあるのに、実感のないまま時間だけが流れた。明日死ぬかもしれない今日を積み重ねて、私はなんだかんだ、あれから9年も生きている。奇跡的なことだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
震災当時、本当に嫌だったことが一つあった。
世間の自粛ムードだった。
 
結局こちらはそれどころではないのだから、せめて世界はいつも通り回っていてほしいと思っていた。
電気が復旧して、やっとテレビが見れると電源を入れたが、延々と流れてくる公共広告機構のCMは非日常感を強くさせた。普段通りのCMでも流していてくれれば、少しでも心が落ち着いたかもしれないのに。この際再放送でいいからバラエティをやってくれと思っていた。アナウンサーではなく好きなタレントの顔が見たかった。
 
 
そして2020年の今日。
テレビも見れるし電気もつくのに、なぜか同じようなことを思っている。
 
 
エンタメは精神のライフラインだ。
震災当時も、これまでも、私の心を照らしてくれたのは好きなアイドルの歌であり、姿だった。一週間後に毎週見ていたバラエティの通常放送が決まって小躍りしたときの嬉しさは今でも忘れない。それなのに、私が強くエンタメを欲しているときに限って、第三者にそれを阻まれてしまう。
 
 
感染症対策のためのイベント自粛要請が、理由があってのことだとはわかっている。
それでも、「未知」のことへの恐怖、根拠のない発言がいともたやすく拡散されてしまう情報化社会、不安を煽るようなメディアの報道、そういったものがどんどん悪循環を起こして、パニック状態に陥っているような気がする。世間の風潮は「今は耐える時」一色だ。そのうち「欲しがりません勝つまでは」などと言い出しそうな気さえする。
 
対策を講じることは必要だと思う。
でも、もし自粛要請をするなら、なにを持ってして判断するのか、どうすれば再開できるのかをきちんと教えて欲しい。侮るわけではなく、長期戦が強いられる感染症対策がずっとこの調子では、世の中が疲弊しきってしまう。
 
 
人にはそれぞれ大切なものがある。
エンターテイメントを愛する人にとってそれは、なにより心を潤してくれる水のようなものなのだと、わからない人にもどうか理解して欲しい。一番エンターテイメントが必要とされているときなのに、その力を発揮する機会が奪われていることが、どうしようもなくもどかしい。
 
 
 
今年、NEWSとともに再び迎える春を、1年間ずっと楽しみにしていた。
新社会人になってしまう友人と、地元宮城で、また4連のうちわを持つはずだった。
公演は延期になり、友人はチケットを払い戻した。
友人は、アルバムプロジェクトの最後を見届けることが叶わなくなってしまった。
 
 
 
会いたい人に会えなくなるのは、
叶うはずだった約束が叶わないのは、
いつだってつらい。
 
 
 
9年前から変わらず私はずっと無力で、
一人でできることなんて、どうにかなれと祈ることしかない。
それでも、何もしないよりはいいはずだと信じて、
今日だけは、どこかの神様に祈ってみる。
 
 
東北にも、エンタメを愛する人たちにも、
どうか、春がきますように。
 
 
 
 
 
 
 
14時46分。
 
ずっとアラームに刻まれた時刻に目を閉じて、
 
今年も、春を願う。